分かりやすい正信偈!浄土真宗であげるお経「正信偈」とは何を書いてあるのか意訳をしてみました。それは絶対の幸福になるためのものだった!

新型コロナウイルスの感染以降、葬式も形が変わり最近ではあんまり聞くことも少なくなったかもしれませんが、よく葬式に読経される「正信偈」(しょうしんげ)をいろんな本や情報を集め意訳をしてみました。

何が書かれたものかとてもわかりやすくなったと思います、興味のある方は是非ご一読お願いをいたします。

正信偈とはいったい何?

親鸞聖人が書いた仏教の教えについて書かれたものです。お亡くなりになった方に読み聞かせるものではありませんので葬式に読まれるのは実際変な気がします。これは生きている人、つまり葬式ならば参列した方々へ聞かせるものだと思います。

実際には意味が解らず眠たいのを我慢するだけのものになっていたと思います。

正信偈の内容

永遠の命を持つ阿弥陀如来にすべてをお任せします
思い測ることができない不思議な光を放つ阿弥陀如来にお任せします

阿弥陀様がまだ法蔵菩薩の時に世自在王仏のところで
諸仏の浄土の成り立ちや、その国土、人間の善や悪を御覧になりまして

すべての善い人も悪い人も救うという願いを立てて
世の中ではまれなる(他の仏ではできない)大きな誓いを起こしました

果てしない長い時間深く思索して、この誓願を選び取ったのです

名号をもって世界に 誓願を轟かせようと誓ったのです

この誓願とはこれから上げる12項目です

  • 限りがなくその光は届かないところはない
  • 何にも遮るものもない 対比するものもない
  • 煩悩を焼き尽くされて 心が清らかになり
  • 喜びを感じるものであり無知の闇を破る光を放ち
  • 照らし続ける     計り知れない光であり
  • 言葉で表すことができない素晴らしい光であって
  • 太陽や月の光を超える光を放ち
  • 私たち汚れた人間の世界を照らします

すべての命あるものは阿弥陀仏のこの素晴らしい12の光で照らされます

阿弥陀仏の本願は48行あって浄土往生する行いです

本願の中でも18番目の行をすべての人が信じて願うことが大事なんです

覚りを得たと同じことです煩悩を滅した覚りの境地となります

本願の11番目で浄土往生した人が必ず仏の覚りを得ることができる

釈迦如来

釈迦如来が現世に出てこられたわけは阿弥陀仏の本願を説明するためです

末法悪世を五つの視点から見て説明をされました,その五つとは
五濁(どうしようもない無秩序な乱世を表す言葉)
劫濁(こうじゅく) ・・・天災や地変をしめす
見濁(けんじゅく)・・・衆住が悪い見解、意見を持つ
命濁(めいじゅく)・・・衆住が短命になる
煩悩濁‥煩悩にまみれる
衆住濁・・・果報が減る

この釈迦如来の教えを信じることです

阿弥陀仏の力は一念(信心を得る時間はアッという間である)で得ることができて喜びの心で満たされるとされています

生きている間には煩悩はなくなりはしませんが、いつ死んでも涅槃(極楽浄土)へ行くことができます

凡夫も聖者も五逆の者も謗法の者もすべての人が他力信心に回心(心が変わる)します

すべての人が本願の海に入り一つの味(同じ喜びの心)になります

(※海に例えられているのは広く、深いというものだからです)

阿弥陀仏の光明は摂取の光明ともいい救い摂られていく光だという感じなのです。

その摂取の光明は後生の暗い心(無明の闇)を破る(なくす)力があるのです。

(※後生の暗い心とは、死んだあとの世界がどうなのかわからず悩む暗い心をさしています)

意味は生きている間に摂取の光明は無明の闇を無くすのだとしています

煩悩の貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)が雲や霧のようにいつも人間を覆っています

(貪欲とは人間の無限の欲望のこと、瞋恚とは怒り、愚痴は嫉み妬みのことをさしています)
阿弥陀仏の本願により摂取の光明を得ました、しかし、煩悩は人間を覆っているのです

しかし、それは例えば、日光が雲霧に覆われていても、その雲霧の下は明るく闇がないのと同じように
煩悩の雲霧の下は明かいのです

阿弥陀仏の本願の信心を得て大いに喜び敬うことが大事です

「五悪趣」の「趣」は世界のこと
五つの悪い世界を「五悪趣」と言います。
六つの迷いの世界、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のことですが、

修羅を人間に含めて、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の5つの世界を五悪趣といいます。

その迷いの世界を阿弥陀仏の力で断ち切られます

一切善悪(善人も悪人も一切のすべての人間)が阿弥陀仏の本願を聞くことだけで絶対の幸福を獲得する

阿弥陀仏のよって救われた人を「広大勝解者」と呼びます

また別の言い方として「分陀利華」ともいいます。
これはインドの昔の言葉ですが、意味は白蓮華ということで、めったに咲かない非常に珍しい花のことです。

仏様方が、「あなたは白蓮華のような、めったにない尊い人だ」とほめたたえられるということです。

(※この世界には仏がたくさんいて阿弥陀仏はその仏の中の先生に値する存在ですということを褒めています)

阿弥陀仏の本願を得ると感謝の意味を込めた念仏を唱える
しかし、人は自分の中にあるよこしまな考えや自分がという驕る気持ちが
人にはあって信楽(絶対の幸福、無碍の一道)を得ることを邪魔をしてしまいます

故に信楽を得るのはとても難しいのです

※信楽を得るとは、なかなか説明するのは難しいが、私が解釈するのは人は念仏を唱える時、又は神仏へ手を合わせ助けてほしい、などと祈ります。また自分の力で何とか障壁を乗り超えることができますようにと祈ります。つまり自分の力、自力を頼みの綱にしているのです。そのことが深く深く阿弥陀仏を信じ切ることができないのです。すべてを阿弥陀仏の本願に寄り切ることが信心を得るのだと私は解釈しています。

これからの述べる七高僧が日本へお釈迦様の教えを伝えてくださった
(1) 龍樹菩薩
(2) 天親菩薩 インド
(3) 曇鸞大師
(4) 道綽禅師 中国
(5) 善導大師
(6) 源信僧都 日本
(7) 法然上人 
がお釈迦様がこの世に生れ出たことを阿弥陀如来の本願を私たち人間に伝え明らかにされたことに感謝しかありません

お釈迦様がインドの楞伽山(りょうがせん)でという山で、説法をしておられた
集まった人たちに対して予言をされました

龍樹菩薩

後に南インドで龍樹という人間が現れるだろう
龍樹菩薩はことごとく誤った教えを打破してしまったのです

龍樹菩薩は大乗仏教を広めました
歓喜地(さとり)を得た龍樹菩薩は龍樹菩薩は41段での悟りを得たのですが(お釈迦様は最高位の悟り52段)魂の解決には至りませんでした

難行道をすすむ仏教を、龍樹菩薩は、ちょうど陸路を旅するように非常に苦しいと、顕らかにしました

それに対して阿弥陀仏の本願は易行道の仏教であり水の上を船に乗っていくようなものだと説かれたのです

阿弥陀仏の本願を一時も忘れることもない、常に念に思えば
阿弥陀仏の力で自然(一念)で絶対の幸福を得ることができる

阿弥陀仏の力で絶対の幸福になりますので
その阿弥陀仏の力(大慈悲)にすくい摂られたことに報いるために
南無阿弥陀仏を唱えなさい(すくってもらうために念仏を唱えるのではなく、すくい摂られたことへの感謝の心を表すために南無阿弥陀仏を唱えるのです

天親菩薩

インドの天親菩薩(てんじんぼさつ)が浄土論を唱えてくださった
からこそ親鸞はすくわれたとしています

天親菩薩が、「私は無礙光如来に帰命しました」と述べています

無礙光如来とは阿弥陀仏のことです

天親菩薩は「修多羅」によって真実の仏教を知らされた、修多羅とは、お釈迦様の一切経のこと
「光闡」(こうせん)とは、明らかに説き広めるということですから、天親菩薩は、横超(他力)の大誓願(阿弥陀仏の本願)を明らかにして説き広められました

天親菩薩は、阿弥陀仏の力で信楽という一心を約束していると明らかにされたのです
阿弥陀仏は「至心にしてみせる」「信楽にしてみせる」「欲生我国にしてみせる」の三つの心を示しているのを天親菩薩は信楽にする一つなんだと明らかにされた

阿弥陀仏の力(阿弥陀仏の名号)とは他力であり広い海のようなもので
正しく仏になると必ず決まった人になる

獲得(ぎゃくとく)とはこの世で獲る、あの世で得るの意味で
この世で獲った仏の教えを知り仏となった人はあの世では極楽浄土に行くことになる

それは直ちに阿弥陀仏の仏と同じ身になることができるということです

極楽浄土に行ったならば煩悩の林にいて(迷いの世界)人間に救い摂ることを行えるようになります

極楽浄土は遊んで暮らすということではなく、生きている迷いの人間を慈悲の心で救う
ことを行うように人間の世界に戻り色んな姿、いろんなことをして救い摂るんだといいます

曇鸞大師

親鸞聖人が本師と仰ぐ中国の曇鸞大師は、時の中国の梁の蕭王(しょうおう)がいつも菩薩と仰いでいました

インドの言葉を中国の言葉に翻訳した翻訳者を「三蔵」といいます。
翻訳者の一人で、菩提流支という人がいました

曇鸞がその人に仙経(道教)の経典を見せたのですが、菩提流支は曇鸞に阿弥陀仏の教えを教えたのです。


阿弥陀仏の教えを知った曇鸞は仙経を焼き捨てたといいます

曇鸞大師は天親菩薩の『浄土論』を解釈されて、『浄土論註』を書かれた
親鸞聖人をそれらをうけて阿弥陀仏の本願によって出来た世界を極楽浄土(報土)といいました
阿弥陀仏の本願が因となって極楽浄土が果となっていることをしめしたのです

「廻向」はえこうと読みます、意味は、差し向けるとか、与えるということ

仏教には2つの廻向があって自力他力があります

自力廻向とは、私たちが、自分のやった善根功徳を、死んだ人や、仏や神へ差し向けることで
亡くなった方に自分が盛大にしたりして祈ります。自分を保護してもらいたいや何かしらのご利益をいただきたいと思う心がそこにはあります。

一方、他力廻向とは、阿弥陀仏が、私たちに与えてくだされることです
阿弥陀仏へ私たちが与えることは何もありません

何故か人間にはマイナスなものしか元々持っていないからです

曇鸞大師は往相廻向も他力廻向、還相廻向も他力廻向、
阿弥陀仏が私に与えてくだされたものはこの2つなんだとしています

往くも還るもすべて阿弥陀仏のお力によるのだといっています

阿弥陀仏には、2つの大きなお徳があります


無量光無量寿の2つです。
「無量光」とは、「光」とは力のことですから、限りなき力を持った仏ということです。

光とは、智慧のことでもありますから、限りなき智慧を持った仏が阿弥陀仏です。

「無量寿」とは、限りない命を持たれた仏ということです。

「正定聚」は、正しく仏になるに定まった人たちのこと
親鸞聖人がここで「正定」と言われている「正定聚」は、あと一段で仏という51段の位に相当します

どうすれば、正定聚の身になれるのでしょうか

親鸞聖人は、ここで、「正定の因は、唯信心なり」と教えられています
ただ信心なり、ですから、真実の信心以外に何もいらない、念仏もいらない、善もいらない、ただ信心一つ、ということです。

信心決定」のことです。
本師本仏の阿弥陀仏の本願に、一念で救い摂られたことを、信心決定といい

煩悩にまみれた人間が信心を得たならば絶対の幸福にこの世でなることができます

阿弥陀仏の極楽浄土に必ずいけます
すべての人、苦しみ悩むすべてのが一人残らず浄土へいけますと諭しています

道綽禅師

お釈迦さまの教えられた仏教に2つあり
1つは「聖道門仏教」、もう1つは「浄土門仏教」と言われています。

道綽禅師は聖道門仏教では助からず浄土仏教でないと助かりませんと言い切っている

人間の行う善ではいくら行っても浄土へ行くことはできないのです。

何故か、人間が行う善には心の奥底に自分の得になることを秘めているからです。

人間のする善には見返りを期待する心や自惚れ心などの毒に汚染されている善としているからです

善い行いをしても心の底に何か自分への見返りや、自分の行いを誇らしく思うなど承認欲求などが心の底の奥底にあるのです。だから人間の行う善では極楽浄土へはいけないとしているのです。


しかし善を行わないでいいというのではありません

人間のやる善では「彼の国に生まれることができないからだ」ということです
それはお釈迦様の行うものに比較して小さいからです

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いて、絶対の幸福の身に救われると、救われた喜びから称えずにおれない、ご恩報謝のお礼の念仏が、他力の念仏です

ただ念仏を唱えれな浄土へいけるのではありませんよ

親鸞聖人が、道綽禅師が教えられたことを書かれたお言葉に
「三不信」というものがあります、これはまだ阿弥陀仏に救われていない人の心をしめし絶対の幸福に救われるまでを「信前」、一念で救われてからを「信後」と言います。

つまり三不信は信前です
「三信」とは、信後の心を言います。
「三不信」とは全く反対で、「淳心」「一心」「相続心」の三つのことです
「淳心」とはまったく疑う心がなくなった状態
「一心」とは阿弥陀仏の一仏だけにすくい摂られる
「相続心」とは、その一心が死ぬまで続くこと

これらを丁寧に教えてくださったのです

お釈迦様は、私が死んだ後、500年間を「正法」
正法の後、1千年間を「像法」と言われています。
さらに、像法の後、1万年間を「末法」
末法の後は、永遠に「法滅」の時代が来ると言われています。

法滅の時機になっても、残るのは阿弥陀仏の本願です

私たち人間は一生悪を作り続けています
そんな私たちを救ってくれるのは阿弥陀仏の本願です

阿弥陀仏の本願で救われた人は極楽浄土にいき
悟りを聞かせていただける

善導大師

中国の唐という時代の方
善導大師は中国の唐の時代で多くの僧侶が宗派を起こしていたが
阿弥陀仏の本願を述べたのは善導大師一人であった

定善というのは、定とは心を静めるということですから、阿弥陀仏に向かって、心を静めて善を行い、浄土往生しようとしている人を、定善の人といいます

実際にお経を読誦しようとしてもいろんなことが頭に浮かんでくるのが人間です
でも心を鎮めようとしているのが定善の人

散善の人とは、阿弥陀仏に向かって、心が散り乱れているままで善を行い、助かろうとしている人です。
心があっちこっち飛び回っているままで廃悪修善、悪をやめて善をやる人を散善の機といいます。

「逆」は、五逆罪という5つの恐ろしい罪作っている人、
「悪」は、十悪の人です。

「十悪」と教えられています。
以下の十の罪です。

(1) 貪欲……底の知れない欲で造る罪。
(2) 瞋恚……怒りの心で造る罪。
(3) 愚痴……ウラミ・ネタミ・ソネミの心で造る罪。
(4) 綺語……心にもないお世辞を言って相手を騙す言葉。
(5) 両舌……二枚舌。人間関係を裂いて、仲悪くさせることを言うこと。
(6) 悪口……中傷、わる口のこと。他人を傷つける言葉。
(7) 妄語……事実無根のウソをついて相手を苦しめること。
(8) 殺生……生き物を殺すこと。
(9) 偸盗……他人のものを盗むこと。
(10) 邪淫……よこしまな男女関係。

「十悪」よりも、もっと重い罪が、五逆罪です。
最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる、「無間業」と言われます。

「五逆罪」とは

(1) 父殺し
(2) 母殺し
(3) 羅漢殺し
(4) 和合僧を破る
(5) 仏身より血を出す
つまりはすべての人を哀れんでという意味になります

阿弥陀如来のお約束通りに絶対の幸福に救われるのか、光明と名号の因縁を明らかにされました

阿弥陀仏の本願は信じ大智海(大きな智慧)に救い取られたならば弥陀の浄土へ往く人は金剛心(絶対変わらない心)になるのです

阿弥陀仏の本願通りに、一念で阿弥陀仏の本願に救い摂られ、人間に生まれてよかったと生命の大歓喜の起きたこと

イダイケ夫人と同じく三忍(「喜忍 非常に大きな喜びが起きる」、「悟忍 仏智をさとらせて頂いた心」、「信忍」疑いの心がツユチリ程もなくなった心)
の3つの心を獲られるのだよ

死後は必ず弥陀の浄土へ往って、弥陀と同じ仏のさとりを開くことができる

源信僧都

日本人の源信僧都がお釈迦様の教えを広められた
私の後生の一大事を助けたもう仏は、ただ弥陀一仏しかなかった

「専・雑の執心に浅・深を判じ」とは、
「執心」とは、信心のことです。
「専」とは、他力。「雑」とは、自力。

「雑」は自力に決まっていますが、「専」と書いてあったら他力とは限らず、自力の場合と他力の場合があります。
自力と他力の違いをはっきりとせられた

「報化二土」とは、「報土」と「化土」ということです。
「報土」とは阿弥陀仏のお浄土
「化土」とは浄土の近辺、片田舎のことです。

他力の信心を獲た人は、弥陀の「報土」へ往けるが、自力の信心の人は、「化土」へしか往けませんよ、とはっきりと解き明かした

人間は身口意によって悪人であるのです。だから念仏を唱えなさい。
ただ唱えるのではなく阿弥陀仏の名号をいただいたことに感謝を心を込めて唱えるのです

源信僧都が語る「私も明らかに、阿弥陀仏の摂取の光明に救い摂られ、絶対の幸福に生かされているが
煩悩が人の目を曇らせて阿弥陀仏を見ることができない」

阿弥陀仏を直接見ることができませんが、いつ慈悲の光に照らされ感涙せずにおられない

法然上人

「源空」これは法然上人のことであり、仏教を明らかにし「山上の仏教」を山から下ろして、普通の庶民でも、ありのままの姿で救われるのが真の仏教であることを明らかにしたのです。

※当時の仏教は山の上で修行をするなどして特別なことをしないと仏教を学ぶことはできなかった

真実の教え(阿弥陀仏の本願)を日本に知らしめた
苦しみ悩みの世の中に阿弥陀仏の本願を広めた

人の生死は苦しみは果てしなく、際限なく苦しむ
それは離れられないことです

「生死輪転の家」とは、苦しみの世界のことで、畜生、餓鬼、地獄、修羅、人間、天上界をいいます
6つの迷いの世界から離れられないことを、家に例えています※「六道輪廻」という

この苦しみの世界から逃れることが出来ない理由は、阿弥陀仏の本願を疑うことが要因です

死ぬと同時に極楽浄土へ行くためには阿弥陀仏の本願の信心を得ていることでいける
それは信心一つでいける

仏教(阿弥陀仏の本願)を広めたのは七高僧の人たちのおかげで
悪に染まった人間すべての人を救うことを阿弥陀仏は誓われている

皆の人よ、どうか、この親鸞と同じ心になってほしい
阿弥陀仏の本願を伝えた七高僧の教えを信じてほしいと。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

正信偈とは仏教を受け継いできた七人の高僧を親鸞聖人が称えている文章なのです。悪を常に行っている人間が極楽浄土へ行くために何をした方がいいのか、どんな考え方が大事なのかを綴っているのです。

一つの言葉をいくつも言葉を変えて説明しているのです。

生きいるうちに悟りを開き死んだら極楽浄土へいくことができる。だから死んだらどうなる、どこへ行くという不安な暗い心はなくなるとしています。

人間はどんなに修行をしても煩悩はなくなりはしない、それにも拘わらず修行を積み重ねている仏教が多い。自力で煩悩に打ち勝ち極楽へ行けるというのは謝った仏教だと説明している。

絶対の幸福というものを得るには阿弥陀仏の本願を信じ切るところに生まれるとしている。

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