ここでいう劣等感とは、自分の現状と理想とする姿に自分自身に劣等感を持つことを指します。
心理学のアドラーのお話です。
人間の心には「優越性の追求」というものが存在します。なにかしら自分にとって良いことをしたい、今より優れていきたいという気持ちがあるという意味です。
この気持ちがあるからこそ、人は向上心を持ち、物事を進めていったり学んでいったりすることができます。
劣等感があることは健全なことであり、向上心を持つこと事態は大切なことだという話です。
しかし、現状、自分の理想とする姿が、かけ離れている場合は、このかけ離れた理由を自分で導きだそうとします。
さも理論的に聞こえるような理由を探し出すのです。
通常、AだからBが加わってCになった、という理屈に当てはめて、理由を探しだしてしまいます。
例えば、「自分が人前で話をできないのは、小さいころイジメられてから、人の目が怖くて、人の前に立つと震えてしまうからです」といった場合。
聞くとそうなんだ~という感じですが、果たしてそれは本当なのでしょうか。
とても理論的な理由に聞こえはします。
しかし、そこには、自分自身が人前で話すのが怖いが故に、後づけて理論化していないでしょうか。
自分を守りたい、面倒なことは避けたいなどというものが潜んでいる可能性があります。
人は保守的な脳の影響で、現状を変えない方が身のためになると変化を拒もうとする帰来がありますので、さももっともらしく聞こえる理由そのものは事実と違う可能性があります。
これは「見せかけの因果律」という仏教の教えで説明がなります。
因果応報というものがあります、すべての物事には「因」(自分のした行動、行い、言葉等)に「縁」(環境や場所、人間環境等)によって「果」結果が生まれます。
因は、種まきに例えられます。
どんな種を撒くか。
ひまわりの種を撒いた場合はひまわりがなります。
ひまわりの種を撒いてバラは絶対にできません。
縁は自分が撒いた種がどんな環境で育つか、またどんな土地に撒いたのか
気温や雨風、日照りはどうなのかによって種の育ち具合は変化します。
これは人間にとってもまったく同じことがいえます。
この因果応報から外れるものはありません。
その観点でいうと「この見せかけの因果律」とは人からみたら、理解されやすい結果のように勘違いしてしまいますが、それはその人が作り出した嘘ということに他なりません。
つまりは、「見せかけの因果律」とは縁が実際にないにも関わらず、さもあったかのようにして話を作り出すことなのです。(もしかしたら、これが縁だと錯覚しているかもしれない)
「見せかけの因果律」を装っている限り、その人は学びがありませんし向上することはありません。先ほどの例えていうとイジメた人が原因なんだと他人のせいにしてしまっているんです。
この「見せかけの因果律」をやめて、自分に真摯に向き合い「因」を改めることが大切です。
自分の行動、言葉を変えていくのが一歩変化を生み出します。
そうはいってもどうしたらいいのか?と声が聞こえてきそうですが、まずは自分の行動やすることを何かに書き出すことをおススメします。
何のためかといいますと
自分の行動を見える化するためです。日々の時間の中で人は当たり前のように時間を過ごしていきます。昨日何していたっけ?というくらい行動があいまいになってきます。そこに注目してあいまいを明確化するために記録して、やったやらないことを明確化するんです。
そして毎日、書くのです。パソコン、スマホ、ノート、手帳、カレンダーでも毎日を見ること、目にすることです。そして、やったやらなかったと記録することが大切です。
切らさないこと、何があっても切らさない。
そうして90日を超えるくらいになると書かないと次へ進めることに違和感を感じてきたらOKです。
それは習慣化されつつあります。
旅行に行っても不幸があっても絶対に切らさない、やらない理由を作らせないと自分に誓うのです。
これをお読みいただいた、劣等感を抱いている方にぜひチャレンジしてみてほしいことです。
参考になれば幸いです。ありがとうございます。