人は一度、自分の考えが正しいと思うと、そのように思えてしまう。違う見方をするものがいたら自分が勝っていると思い、他者が間違っている劣っていると思い込みをする。
その考えが縛りを強くして自分を不自由にしてしまう、人が陥りがちなこの「縛り」から自由になるためには、どのようにすればいいかをブッタは述べています。
本ブログは「ブッタの言葉」とタイトルを付けた最古の原始仏典「アッタカヴァッガ」の本より引用させていただきました。
貪欲(とんよく)
人は自分が求める欲を貪り求めます。欲しがるものとは土地、お金、名声、名誉、金銀財宝、人望、等など。
その欲が叶えられない時になるとあたかも矢に射たれたように苦しみます。
その欲を貪り求め、戸惑い、物惜しみ、不正の中に居着いてしまいます。そして苦しみに襲われると嘆き悲しみます。
行きつくところは「死」というものを意識します。
この欲の「ある」「ない」に強く執着して離れられないのが人間です。
悪意でものを言う人
悪意でものを言う人、あるいは誠実な思いで言う人がいます。その人たちと議論が起こっても、その議論に近づかないことが賢明です。
悪意のものいい、他人が正しいと思っているものいい等の議論に巻き込まれないことは、それらの声を受け取らないことです。
「それだ」「ダメだ」等と執着しないことで物の見方を柔軟に保つことが大事です
つまり「これが最高に正しいのだ」と決めつけることをしないことです。
現代はSNS上に誹謗中傷が横行しています。顔が見えない誰かわからないなると言葉を強くして人を襲う者がいます。
すべての人が自分に対して非難や謗っているわけではありませんが、少数の意見でも気になる方は心を痛めます。
ブッタは、そのようなことを語る者の言葉は受け取らないことだといいます。
受け取らなければ、自分の心を痛めることはありません。
たまたまそんな記述を見てしまったら、「そうなんだ」と流しSNSを閉じるのが良いのではないかと思っています。これが最善策というわけではありませんが、その悪意ある言葉に応じて返事をしてしまうとその後引きずることになると思うからです。
自分と他人を比べない(人の評価の左右されない)
偏ったものの見方で自分と他人を比べて「同じ」だと思ったり、「劣っている」「勝っている」と思わないほうがいい。
比べるという基準そのものが偏ったものの見方であると思うのです。
現代風にいうと「みんな違っていい」だと思います。
想念や物の見方などを固く自分の心に執着しているから、人々は比べぶつかりあうのです。
正に争いは、意見が違う者同士、お互いの意見、考えをぶつけ合い、力でもって自分が正しいという考えを認めさせ、または抹殺しようと相手をやり込めることが戦争にまで拡大します。
比べる基準そのものは自己都合で持つ欲が元になっているので、時と場合によって基準は変化します。
それ故に、いいと言ってみたり悪いと言ってみたりすることは、極めていい加減なものであると認識しておくことが大事です。
欲は何に基づきおこるのか
欲というものは、自分にとっての「快」「不快」と感じることが元となり欲が生じます。
この「快」「不快」というものは物事を経験することで起こります。
人の話を聞いた、自分の話を否定された、褒められた、謗られた、等など様々な物事に自分の心は「快」「不快」を瞬間瞬間に判断します。
そして、その心に沸き上がったことに対して欲が持ち上がります。
「快」と感じた場合は、そのことを良くいったり、人を賞賛します。
「不快」と感じた場合は、悪くいったり、人を謗ります。
このように人は自己都合で人を評価し良くも悪くも判断しますので、人の評価で比較されたり悪く言われたりすることを受け取らず、聞き流すくらいがちょうどいいのです。
ブッタが心を安らかにするために語ったこと
心が不安や恐れに襲われるときは、心の中に自らが作った妄想が生まれています。
妄想と呼ばれるものは「私が考えて、ある(存在する)」ということに決めてしまっています。
この妄想を打ち破りなさい、どんなに強い妄想(執着)があってもそれを制して常に気付いて学びなさいと述べています。
ブッタが修行僧に対して語ったことを列記します
- 慢心をしないこと
- 自分は勝っている、劣っている、同等であると思わず、構えないこと
- 無益な話には耳を遠ざけること
- ものを求めず、恐ろしいことに会っても動揺しないこと
- 行儀の悪いことを慎み、怠けないこと
- 多くの眠りをとらないこと
- 怠惰、偽り、談笑、遊戯、性交、装飾を捨てること
- 占いの類を行わないこと
- 非難されても怯えない、賞賛されても高ぶらないこと
- 売買に携わらないこと、誰も非難しないこと
- 自慢しないこと、画策した言葉で語らないこと
- 論争になるような言葉は使わないこと
- 嘘をつかないこと
- さまざまなことを言って来る者にも荒々しく受け答えしないこと
などを語っていました。
戒律といってもいいほどの厳しいものです。
通常人がこれを守ることは至難ではないかと思います。
まとめ
ブッタのアッタカヴァッガに述べていることは、「この教えは正しい」と決めて、それを固く握ってしまうあり方が確執の元であることを深く痛感し、それをきっぱり放って生きる姿勢」が大切と切り返し語られています。
物の見方を変えてみる、当たり前のこと、正しいこと、などと以前から思っていたこと。
自分の所属する団体、組織が考えている正しいことは本当にそうなのか、人がいうことは本当にそうなのか、マスコミに流れることを鵜呑みにせず、人の噂に影響されず。
心に「縛られる」ことなく見方を変えてみることが生き方を楽にすることなのかもしれません。