生きる目的を考えることってありますか?私はしてきませんでした。
最近、仏教を学ぶことの縁を受けて、学ぶ時に「なぜ生きるのでしょう?」という質問を受けました。答えられませんでした。
生きる目的
この生きる目的を考えるにあたって、「人間の命の尊さ」を知らないと答えられないと私は感じました。
地球(世界)を見渡すと世界中で紛争が起こっています。イスラエルとハマスの戦争で毎日死者が発表されている昨今です。また、ロシアとウクライナも然りです。紛争だけではありません。日本でも2024年1月1日に起こった能登半島地震で200人以上が亡くなるなどの災害なども起こっています。
人の命なんて尊いの?と思うこともあります。
日本では毎年2万人が自殺し、アメリカでは約5万人に達するといいます。
こんな世の中にあって人命は地球より重いのか?その答えを言えますか?
この難問である、人の命の尊さの答えを話している方がいます。その方は2600年前にインドで生まれたお釈迦様(ブッタ)です。
盲亀浮木
お釈迦様は人々にわかりやすく例え話を使う方でした。命の重さ、尊さを話した例えがあります「盲亀浮木」(もうこふぼく)といいます。
お釈迦様がお弟子さんに人間として生まれるのはどのくらい尊いことかと、質問をしました。
その内容は「大変広い海の中で盲目の亀が泳いでいました。その亀は100年に一度海の上に顔を出します。その海の上には波間に浮かぶ一つの木辺があったそうです。
その木辺には亀の頭がすっぽり入る穴が空いています。
盲目の亀が海上に顔を出す時100年に一度の時に、たまたま浮いていた木辺の穴に亀が頭を通すということがあると思うか?」とお釈迦様が質問します。
お弟子さんはそんなことは考えられないと反応しますが、お釈迦様は絶対にないと言い切れますか?とさらにお弟子さんに問い詰めます。お弟子さんは100%ないとは言えません、と答えます。
お釈迦様は「人間として生まれるということは、この亀が穴の開いた木片に頭を通し浮き上がるくらいのありえないくらいのことだと」つまり、有ることが、難いことだと。(ありがとうの語源)
また、人間界に生まれるということは、六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)をめぐってきます。中でも畜生界、餓鬼界、地獄界の三悪道から抜けて人間界へきたことを意味しますので、大変有難いことなんですと説明しています。
そんな状況の中、人間として生まれたのは、人間でしかできないことがあるんです。それは仏教(仏法)を聴くことができるということだとしめしています。
仏教(仏法)とは、お釈迦様の教えであり、「法」の意味は法律とかとは違って変わらない普遍なものの意味になります。
お釈迦様
ではお釈迦様は何を伝えたかったのでしょう。
それはタイトル、「生きる目的」です。
人は生まれると、どうやって生きていくかだけを考えて成長していきます。
- どんな大人になるか
- どんな人生を歩むか
- どんな仕事をするか
- どんな老後を過ごすか
などを考えるのではないでしょうか。つまり生きるという目的を考えることなく人生を過ごしていくための手段を考えるのです。
お釈迦様のいわれる人生の目的とは「絶対の幸福」になるためだといいます、それは南無阿弥陀仏の六文字に秘められていると。南無阿弥陀仏はこの上ない幸福をいただく働きをするものだといいます
意味わかりますか?阿弥陀仏(仏の中でも先生に値する仏)が救いますと話をしているのですが、このことを伝えてくれたのがお釈迦様なんです。お釈迦様は阿弥陀仏の生徒のような存在なんです。
う~ん、話がだいぶんややこしくなってきましたので、この話はこの辺で終えたいと思います。
まとめ
タイトルの答えを端的に書きますと、人間に生まれて唯一の目的は「生きてる現世において絶対の幸福を得るためだとしています。」
絶対の幸福とは、わかりやすい言葉に置き換えるとなんなのか?そういう疑問をもってしまいます。
私自身が過去の書物から得た知識、人から聞いた話を混ぜて出す答えは、『すべてを受け入れて感謝する』という結論です。
生きている限り様々な出来事が起こります。楽しいこと、苦しいこと、辛いことなどなど。すべての出来事にどうしてこんなことになったんだ。神も仏もない、と嘆いても何も変わりませんし、よくなりもしません。
それでも受け入れて生きていくこと、その境遇を感謝することだと思っています。さらに付け加えると生き抜いていくことだと私は考えています。
受け入れ方も嫌々受け入れたりしては苦しむことになりますので、起こった出来事が気に入らないと闘ったり争ったりするのではなく心も体も楽になるように受け入れる、このような受け入れ方が必要だと思います。
あなたの「生きる目的」はなんでしょうか?