人はとにかく他人の評価を気にして生きています。
それも以前より現在はSNSというものがそれに拍車をかけている感じもします。
生存本能
承認欲求とは心理学者のマズローも上げていますが、所属感を強く感じるものですと心理学者アドラーの「嫌われる勇気」というべストセラー本の中でも共同体という言葉で表現されています。
人は人の集団、何かしらの仲間に所属するという所属の本能は生存本能を上回るといいます。
人間は赤ちゃんの時に何もできない、自分の欲求を満たすために泣き叫び、周りにいる大人=他人に指示命令しているに等しい行動をすると表現されるゆえんです。
つまり周りにいる人間に支援をしてもらわなければ生きていくことができない生き物なのです。
これは人類の歴史が始まって600万年前からの原始の時代には人間という弱い生き物は集団で命を守らなければ弱肉強食の時代の中で生きていけなかった。そのような時代がとても長く現在社会として人間が生きている時代はいまだ数千年の経過でしかない。つまり長い人類歴史上ではまだまだ始まったばかりなので人間は進化をしてはいないといえるのではないでしょうか。
他人の評価に生きているとどんなことが起こるのか
SNSの「いいね」を意識して日々の行動をしていたり、勤務先の評価査定を中心に生きていると息苦しく心を狭い場所え追い込んでいくような感じさえします。
そもそも他人の評価を気にして何か、いいことがあるのか?と疑問に思います。
他人が評価をする基準は何でしょう。
人間は毎日の少しの切っ掛けで気分は上下し、ある時は機嫌がよくニコニコかと思うと少し気が向かないことがあるとムスッとして途端に機嫌が悪くなります。
それだけ感情に起伏のある他人の評価を気にしていては自分自身は振り回されることになります。ましてSNSはその他大勢の他人の集団なのです。
いいと思う人がいれば、気にいらないという人も必ずいるのです。
人はすべての人が白、を白というとは限らないのです。
室町時代の臨済宗の僧の一休宗純(通称 一休さん)はこんな詩を残しています。
今日褒めて明日悪くいう人の口
泣くも笑うも嘘の世の中
こんな他人の評価を基準にして生きてしまうことに何もいいことはないのではないかと思います。
ただ、勤務先の業績や関係する集団組織におけるルールは順守することも評価といいますが、常識の範囲で気にすることは必要です、捉え違いし、まったく人から見られることを無視するのはやりすぎであることはういまでもありません。
今日は、他人の評価について書かせてもらいました。