自分とはなんぞや?と考えたことがあるだろうか
自分のことを知る
先日、加入している団体でこんな話があった
自分のことを人に理解してもらうために「たすき掛け」を
したとしたら、そのたすきに自分を一言で言い表す言葉を書くと
したらあなたは何と書きますか?という問いかけがありました
私はとっさに答えを出せませんでした
以前ならば「真面目で継続力がある的な言葉を書いたと思います」が・・・
今回、出てきませんでした。
自分のことは自分が一番知っているなどというセリフがよくあります。
ほんとうに自分のことを自分が一番知っているのでしょうか
意外と自分のことを知らない、理解していないのではないかをこの瞬間思いました
ジョハリの窓という心理学があります
四つの窓に分けれているのが特徴です
この図がジョハリの窓です
自分が知っている私
自分が知らない私
他者が知っている私
他者も私も知らない私
という四つの領域を持っているというのがジョハリの窓という理論です
このように自分のこと知っているには一番は自分というのは実はそうではないと思うんです。
人には思い込みといものがあります、自分自身はこうだああだと決めてかかっているのが自分ではないでしょうか。
引っ込み気味だ、人見知りだ、内気だなどとマイナス的なものも幼少期から成長期にかけてかかる出来事で自分自身が作り上げてきたものの可能性があると思うんです。
私って「〇〇〇の人なの」というのはその典型だと私は思っています。
この自分を知るという探求は古代ギリシャの時代から「汝自身を知れ」ということわざがあるように人間は自分というものを知ろうと試みています。
釈迦(ブッタ)は2600年前に「本当の自分を知る」ということを説いています。
三枚の鏡
ブッタは人には3枚の鏡があると説いています
「他人鏡」
これは他人の目に自分がどのように映っているのあ、他人は自分をどう思っているのかと「他人の評価」によって自分を知ろうとしているということです
私たちは他人に評価に一喜一憂しているのが常です。
「人からどのようにみられるか」
「人に笑われる」
「この服装、どう見える?」などど容姿や評価を気にして生きています。
現代ではSNSなどでどれだけ「いいね」をもらえるか
炎上されるかなどと人からの評価を基準にしています
この他人に評価をしてもらう中で生きていると他人の評価基準や
評価する他人が変わるたびに自分の評価が変化し翻弄されることになります。
会社で言えば経営者が変わると自分の評価がコロコロ変わるようなものです。
生きていくのがしんどくなります。
自分鏡
自分自身を反省することなどで自分を知ろうとする見方です。
自分自身を評価しようとすると「欲目」が出てきます。簡単にいうと甘く評価してしまう
プラスの欲目にましてマイナスで評価する人もします「自分なんて・・・」「私はダメな人なんだ」という状態では正確な自分を知ることはできません。
法鏡(ほうきょう)
ブッタは「ありのままの自己」を映し出すものとして「法境」という「真実の私」を知るものを与えてくださっている。
この法境に映る本当の姿を「煩悩具足の凡夫」としています。
「煩悩具足」というのはすべて煩悩の塊というもので
「凡夫」とは人間のことです
つまり人間は煩悩の塊であるとしているのです
「煩悩」とは108あるといわれていて、その中でも「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)」の三つを三毒の煩悩といわれています。
貪欲とは、求める心です。限りなく際限なく求める欲求のことです。
瞋恚とは、怒りです。自分の際限ない欲求を邪魔されるとかーっと起こる人間の怒りです。
愚痴とは、妬み、嫉みのことを指します。
このような煩悩の塊が人間だとしています。こんな人間だから自分のことを知ろうとしても真実の自分を知ることは難しいとしています。
まとめ
このように見てくると自分で自分を評価しているのは真実とは思えません。
あくまでも自分で考えだした自分だと思います。
それは自分すら知らないのです。
表面的に自分を一言でいうのは「こういう人間になりたい」と思うことになるのではないかと思っています。